2011年12月11日日曜日

真の用心棒

日本には用心棒と呼ばれる方々がいました。
用心棒が優れていたのは「武」を修めていたという事です。
そこには絶対的な強さがありました。
それは武力だけではありません。
日本において「武」と「文」は、本来、両道ではなく不岐なものであります。ただ腕力にものを言わせていただけではありません。

幕末に岡田以蔵という用心棒が勝海舟の護衛を行った。護衛についていた時に3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。その際、勝先生が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。勝先生は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている。(ウィキペデアより)

岡田以蔵はジョン万次郎の護衛も行っている。4人の暗殺者が万次郎を襲ったが、以蔵はその4人以外に伏兵が2人隠れていることを察知して、万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示し、襲ってきた2人を切り捨てた。残った4人は逃亡した。(ウィキペデアより)

これらの記述の中に警護人としての要素が凝縮されている。

岡田以蔵は、最後には処刑されてしまうが
「君が為尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡る空」
この様な句を残している。

以蔵は武市瑞山に師事し、剣術を学び、その後、江戸に出て鏡心明智流の名門である桜井道場に入門。中伝を得る。武市に従い、中国・九州を武術修行した後、土佐に帰国し、土佐勤王党に加盟している。
(浅学)と言われる以蔵だがこの句からはそうには思えない。

ただ腕がたつだけではなく、文武不岐だからこそこの様な強さを誇り、勝海舟、坂本竜馬、ジョン万次郎といった歴史の偉人達と一緒にいる事も許されたのではないでしょうか。

警護にとって事前回避の要素やその為の行動プロセスは確かに重要である。なぜなら、危機に陥らない事が前提になるからである。常時からリスクを管理し危機に近づかなければ、それが危機回避につながるからである。

しかし、臆病にそれだけを行うだけでは警護はできない。

ずっと話して来ている事ですが、これも強さがあって活きる行動プロセスです。確かに慎重さは大切ですが、そこにこだわり過ぎると失敗します。

これは日本精神の知と勇の関係そのままである。

信号機のある交差点で歩行者信号が赤で車が来ています。
この場合、交差点の中が車両の通り道になる為に安全な場所で信号が青になるのを待つのが普通である。

これは、どこが危険で、どこが安全かをよく承知しているからである。
こうした交差点の性質を知らず、その危険性や己の力量の限度もわきまえずに勇ましく交差点に向かってゆくと、運が悪ければひき殺されてしまう。

このように物事に習熟していないにもかかわらず、己の腕力を恃み、無謀に行動すれば、破局に陥るものである。

リスクのあるところでは、まず物事の道理をよく知っておくことが重要であり、勇気をもって立ち向かうのはその後にすべきである。

しかしながら、いかなる時も智が優先され、勇はそれに次いで必要とされるというものではない。

考え過ぎれば成すべき事を仕損じたり、判断を鈍らせる事もある。
そうなれば本質とかけ離れた無意味な議論さえしてしまう。
重要な事は物事の本質を捉え、最適な答えを導き出し、実行していくことである。観念にとらわれ過ぎ、実益を伴わない空理空論こそは実戦で通用しない。

以蔵は、この様な事も含め日本人の本質が骨に染み込んでいたからこそ、あの時代に威人を護る事が出来たのではないでしょうか。

それは彼の人斬りという別の役割と最後から見とれる覚悟、そしてその様な
茨の様な人生を選択した要素(以蔵の正義)から伝わってきます。
そして人斬りとしての経験も警護をする上で、重要な状況判断要素になったに違いません。

幕末は個々が己の正義のもとに己を貫いた時代です。
その中で岡田以蔵の生き様に色々な意見はあるかとは思いますが、警護というものに限って見れば、岡田以蔵の人生に警護人としての大切なものを見る事ができ、そこには己の正義を貫く真の強さと、洞察力、覚悟など真の警護人があります。

これもまた「武」という日本人の本質から産まれたものに違いありません。

逃げたり回避すると言葉で発するのは簡単です。
警護というものがどの様な性質を持ったものかを理解出来れば、その重要性は勿論ですが、一概に逃げる回避がその場にその一瞬に果たして正しい答えなのか?本当に必要な事や成すべき事が見えてくるはずです。

緊急時がどれだけ厳しい環境下であるかは、単に頭で理解したり、イメージするだけでは不十分です。それは実際に経験した者のみが知りえる事であります。

真の強さを持ってない者が偽って虚勢を張ったところで、その弱さは言動に自然に出てしまうものです。つまり、その人間の本質は警護の構成や対策、対応にも出てきます。

真の用心棒と知識や技術だけのClose Protetionオフィサーどちらが真の警護人かは自然に見えてくるのではないでしょうか。その気概と能力など質は比べ物にならない。

明日から今年最後の一般警護士訓練です。
日本人警護員が増えて日本警護人の凄まじさを世界に知らしめたいものです。

真のボディーガードを目指している方々をお待ちしています。

一般警護士訓練については>>>こちら

JBA Team

2011年12月10日土曜日

知ると理解

警護人は学者ではなくオペレーターでなければならない。
ただ知り得ているだけではなく、実際に出来なければならない。
実際の警護の現場とは常にストレス下に置かれているものである。
その厳しい状況下で即応するには知っているだけでは的確に動く事が出来ないのである。
しかし、すぐ動けるといってもマニュアル化された同じ事を反射的に行ったのでは敵の作戦にあっさりハマり窮地に陥る事になる。
その環境や状況に基づき分析、判断した上で、その場に合った行動を実施することが求められるのである。
つまり鍛錬において「警護術」の理解はそれをその環境や状況に適用できる状態までもっていかなければ、本当に理解したとはいえないのである。
ここから説けば単に知識や技術の訓練をしたところで警護人になれない事はご理解いただけるのではないだろうか。ただ模倣したところで、一つ一つの知識や技術を得たところで、それらをつなぎ合わせる基礎根幹がなければ活かす事はできないのである。
日本ボディーガード協会の一般警護士訓練の目的は、世界で通用する日本人警護員の育成にある。その為に知識や技術は勿論であるが、基礎根幹を重要視する内容にて訓練を実施しております。
実際に現場で的確な活動出来る警護員としての本質と先人が残してくれた日本人としての本質を兼備えたものが「日本式警護術」です。
そこには警護員として必要な要素が凝縮されています。
警護人に必要なのは、使命感と覚悟と実力。
それらが全て集約されているのが武士道精神であり、警護の内容に集約されたのが警護源集令である。
知識や技術のみを追求すれば、強き精神を失い、術に流されて実力を養うことを避けるようになる。
日本における古来からの戦いは実力をもってする正々堂々たる決戦である。
日本人警護員は強さを本分として実力を磨き、常に備え、真の「警護力」を得る事が出来れば、常に平常心を保ち正しき行動が出来るようになり、結果として如何なる脅威からも警護対象者を護る事が可能となる。この能力こそが「実力」である。
JBA Team
一般警護士訓練については>>>こちら

2011年12月9日金曜日

警護における戦いと意志

戦いには多様な形がある。
腕力による戦いはその一部に過ぎず戦の全てではない。
警護における戦いとは、情報戦や心理戦など多様な形で行われる。
つまり護るというのは表面的な行為でしかすぎない。
警護は闘う事ではなく守る事だというのは論外であり、警護の本質をまったく理解していない事になる。
護るという行為には限界がある。
幾度かしのぐことはできても、永遠にしのぎ切るのは非常に難しい。
敵も思考錯誤し目的達成の為にあらゆる方策を用いてくるからである。
常に変化する敵の行動に毎回同じ対策・対応は通用しない、つまりマニュアルなど無意味であるということである。それが現実であり実戦である。
表面的でマニュアル化されているものを捉える事はとても簡単な事である。
真の強さとは、単に腕力だけの強さだけではなく、思考や精神、道など総合的な強さである。警護人にとっての「護る」という意志はとても重要であり、警護員の正義と言っても過言ではない。この「意志」が無くなれば、真の強さは勿論、警護員としての存在意義は無くなり、警護対象者を護る事など出来なくなる。
この「意志」を曲げる要因はたくさん存在するが、一番の要因は私欲である。
この「意志」以上に警護員自身の自身が上回れば、警護よりも己優先の行動に陥り、本質を欠くことになる。
私欲は「悪」を産む要因でもある。
己の可愛さや私利私欲の為に個人主義にはしれば人を欺き、偽る行為を産み出す。そして最悪に至れば謀略を用いて人の人生や社会に災難をもたらす。
この様な人間に正しき判断はできず、生涯に直面すれば「意志」は簡単に折れ、自己保身に陥る可能性もある。つまり警護対象者を護る事など出来ない。
この様な者は弱き者の典型的な形ではないだろうか。
その逆に己に打ち勝ち、私欲を捨て、社会の貢献や大義の為に役割と責任を全うする強さを持つ者でなければ警護対象者を護る事はできない。
本来の「日本と日本人である」の中に全てが詰まっているのである。
己の満足の為に知識や技術のみを欲するのもまた欲の産むものの一つではないだろうか。
その様な小手先の物だけでは真の警護人には成れないのは当然である。

JBA Team

警護という環境

平和とは単に戦いが無くなる事ではなく、正義の実現である。
真の平和を築くには「真の強さ」と「正しき心」が必要である。
そしてこれらを兼備えているのが日本精神の真髄である武士道であり、この偉業を成し得るに一番近かったのが日本人である。
何かを護るにも「真の強さ」と「正しき心」は絶対的に不可欠なものである。
警護対象者の「正義」と「悪」を知る事が出来なければ護る事はできない。
「正義」と「悪」は相対するものであり、ぶつかり合うのが自然の摂理である。ぶつかり合いは戦いを生むものである。
つまり警護という環境は戦闘であり、戦いに勝つことが出来なければ警護対象者を護る事はできない。
戦いは双方に「意志」が存在する限り続くものであり、勝つには敵の「意志」を消滅させるしかない。
権謀術数をめぐらし、策を弄して敵を偽り欺いたところで、一時しのぎになったとしても敵の意志を消滅させることはできない。
その為に必要なのは「圧倒的な強さ」(実力)である。
戦闘下において通常時の常識など通用しない。
敵に「もしかしたら」などという期待を持っては勝つ事など出来ない。
「武」によって秩序と安定が確立され、はじめて安心・安全というものが花開くのである。
日本人の「武」とは、悪を断ち、正義をもたらし、安心と安全(平和)を生成するものである。
そこには、警護人として必要なものが凝縮されている事は間違いない。
この様な厳しい環境で、知識や技術といった小手先の物だけで役割と責任を全うすることは出来ない。
日本人警護員こそがこれらを体現できる可能性を秘めている。
それは先人が長い年月を懸けて、たくさんの血と命の上に練り上げた世界に誇れる遺産である事を忘れてはならない。そしてこの国そのものも先人が命がけで我々子孫の為に護ってくれたからこそ現存するものである。

JBA Team

 

2011年12月8日木曜日

道徳とルール

日本の安全神話も完全に崩壊し、日本人として当たり前な事が当たり前では無くなってしまった現代日本・・・
危機管理やセキュリティを取巻く環境も様変わりし、以前の様な概念も通用しなくなった今、どの様に安心や安全を保持していけばよいのでしょうか。
本来、日本人には独自の一般常識(道徳)が歴史のうねりの中で練り上げ生成されて存在していました。それらは義、勇、仁などといった人間が人間として、そして日本人として日本人らしく生きる為の大切な要素です。
しかし、現代の日本は海外色に染まりきり、日本人としての本分どころか、己が進むべき道や日本人としての道さえ見失ってしまっているのではないでしょうか・・・
その道徳こそが、相手を思い、社会に貢献し、正しき道を貫き、恥ずべきことはせず、護るべきものの為に決死の覚悟を決め実行し成しえるという根源であり、そして秩序を構築し安心と安全をもたらしてもいました。
しかし、現代はこの道徳が崩壊し、個人主義になり保身や欲が芯をなしこれらをルールが先行し規則で締め付ける事が当たり前になってしまっています・・・
ルールといったものだけで全ての答えが出るものではありません。
人間として心があり、人間として思考がある。
人として正しき事は正しく、悪きものは悪い。
人の行動をつかさどるのは、思考や魂です。
本当の問題の解決とは、根源を断ち切り始めてなせるものであり、小手先の対策や対応などでは出来ません。
これらはこの分野に直接的に関わるものでもあります。
全てを失い心の芯から襲撃を決心した相手をルール(法律)などで止める事など出来ないでしょう!
そこは真と真の戦いの場です。
そこに決まり切った手法(マニュアル)など存在しませんし、逆にマニュアルになどに頼れば、思考や行動は凝り固まり敗北の原因になります。
現場で通用する警護人にはどんなに知識や技術を追及したところで成れません。何にでも共通することですが大切なのは中身です。
その中身(根幹)がある者とない者とでは、宝石の原石と風船のようなものです。磨けば磨くほどに強さも価値も増していくのと、膨らむ限界があり障害があれば簡単に壊れて修復できない。
日本人としての道徳があれば日本人としての自信と誇り、そして真の強さが生まれてきます。
真の強さを持たない者になにかを護る事など出来ません。

JBA Team