2011年12月9日金曜日

警護における戦いと意志

戦いには多様な形がある。
腕力による戦いはその一部に過ぎず戦の全てではない。
警護における戦いとは、情報戦や心理戦など多様な形で行われる。
つまり護るというのは表面的な行為でしかすぎない。
警護は闘う事ではなく守る事だというのは論外であり、警護の本質をまったく理解していない事になる。
護るという行為には限界がある。
幾度かしのぐことはできても、永遠にしのぎ切るのは非常に難しい。
敵も思考錯誤し目的達成の為にあらゆる方策を用いてくるからである。
常に変化する敵の行動に毎回同じ対策・対応は通用しない、つまりマニュアルなど無意味であるということである。それが現実であり実戦である。
表面的でマニュアル化されているものを捉える事はとても簡単な事である。
真の強さとは、単に腕力だけの強さだけではなく、思考や精神、道など総合的な強さである。警護人にとっての「護る」という意志はとても重要であり、警護員の正義と言っても過言ではない。この「意志」が無くなれば、真の強さは勿論、警護員としての存在意義は無くなり、警護対象者を護る事など出来なくなる。
この「意志」を曲げる要因はたくさん存在するが、一番の要因は私欲である。
この「意志」以上に警護員自身の自身が上回れば、警護よりも己優先の行動に陥り、本質を欠くことになる。
私欲は「悪」を産む要因でもある。
己の可愛さや私利私欲の為に個人主義にはしれば人を欺き、偽る行為を産み出す。そして最悪に至れば謀略を用いて人の人生や社会に災難をもたらす。
この様な人間に正しき判断はできず、生涯に直面すれば「意志」は簡単に折れ、自己保身に陥る可能性もある。つまり警護対象者を護る事など出来ない。
この様な者は弱き者の典型的な形ではないだろうか。
その逆に己に打ち勝ち、私欲を捨て、社会の貢献や大義の為に役割と責任を全うする強さを持つ者でなければ警護対象者を護る事はできない。
本来の「日本と日本人である」の中に全てが詰まっているのである。
己の満足の為に知識や技術のみを欲するのもまた欲の産むものの一つではないだろうか。
その様な小手先の物だけでは真の警護人には成れないのは当然である。

JBA Team